長岡の花火を創り続けた伝説の花火師 嘉瀬誠次

長岡の花火を創り続けた伝説の花火師 嘉瀬誠次|25年8月 花火に込めた思い

正三尺玉

長岡の花火を創り続けた伝説の花火師 嘉瀬誠次

長岡まつり大花火大会を代表する名物花火の一つ正三尺玉。
見る人を魅了して止まない花火技術の最高傑作です。
直径90㎝、重さ300㎏の巨大な玉が上空600mに打ち上げられ、直径650mもの大輪の華を咲かせます。
昭和26年、「戦災復興祭」から「長岡まつり」に名称を変えた年、正三尺玉を見事に復活させ、長く長岡の花火の発展を支え続けた花火師・嘉瀬誠次さん。花火づくりに込めた想いに迫ります。

もっといい花火を上げるぞ。花火を楽しめる平和な世の中であってほしい

--嘉瀬さん、こんにちは。今日はまた花火の話を聞かせてもらおうと思ってね。大正15年、嘉瀬さんが正三尺玉を初めて見たお話から伺おうかな。
嘉瀬「4歳のときだな。菊型の花火でね。当時の三尺玉は上がっても満足に開けば良しとしたもの。あんまり進歩なかったんだよ。今みたいに大きくならんしね。開くとき口がいびつだったし、星はみんな砕けているし。花火師のせがれとして、もっといい花火を上げたいなあと闘志が湧きましたね。
子ども心に商売敵(がたき)という気持ちがどっかにあったんだろう。もう戦々恐々として見てたこてね。『俺だったらこう上げる、俺も負けない』と絶えず子どもの頃から思っていた。」

--その思いが、昭和26年にお父さんと一緒に打ち上げた正三尺玉につながるわけですね。
嘉瀬「花火は親父に聞きながら俺がほとんど考えたんだ。玉が小さくても、大きくても原理は決まっているでしょ。世界に一つしかない花火、珍しい花火を作ろうと思ったんだ。花火は何万発も作ったけれども、三尺玉を作るときは緊張したね。他の玉と違って絶えず3カ月間、100%落ち度の無いようにしようという気持ちだった。きれいに上げるためにだいぶ研究しました。やるだけのことはやりましたよ。今思い残すことはないね。
花火は、どうかもう戦争はしないでほしいという思いと、まっすぐに玉が上がってくれという思いで打ち上げた。終わると何かほっとしてね。よくやったなあという実感だろうね。確かに上がってちゃんと輝いているのを見て、しゃがみ込んじゃったなあ。あのときは天にも昇る思いだった。みなさんからきれいだなあと、我を忘れて無我夢中になって見上げてもらえれば、それで最高。みんなが花火を楽しめる平和な世の中であってほしい。」

--みんなを驚かせるのが楽しかったんですね。ナイアガラも嘉瀬さんが発明したとか。
嘉瀬「市から新しい花火はないかと頼まれ、3日考えたよ。長生橋にナイアガラを仕掛けてやろうと。しかし、当時の橋を管理する建設省がなかなかいいと言わない。国道にかかる橋に火付けるなんてさ、だめらこてね普通。親父が何度もお願いして実行できましたけどね。端から端まで870mに取り付けたんですよ。」

--初めてのナイアガラはどうでした。
嘉瀬「そりゃきれいさあ。長さがすごい。信濃川ってのはね大舞台だね。長岡の花火はあんだけたくさん上がるろ、あれだけお客さんが来るろ。広いろ。花火を西からも東からもお客さんが見れるんだよね。よそは片っぽしか見えない。堤防の斜面も緩やかでお客さんが見やすい。日本一いや、世界一の大舞台。花火の打ち上げで世界中を飛んで歩いたけど、こんなところほかにねえわ。」

--嘉瀬さん最後の花火は平成18年ですよね。
嘉瀬「2発打ち上げた。1発は頼まれたもの。もう1発は俺が用意したんだ。お客さんには内緒にしていて驚かせた。上の方に差し上げるものは、本当は一対にするもの。
だから最後は2発上げようと準備していたんだ。お世話になったみなさんにお返ししたいと思ったんだよね。」

亡くなった戦友に俺の花火を見せたい。白菊を手向けたかった

-―戦争から帰還して花火を上げ続けてこられましたね。どんな思いでした。
嘉瀬「俺は千島列島に配属されていた。戦争に負けてから3年間シベリアで重労働を強いられたでしょ。一生恨んでやるという気持ちだったよ。
平成2年、シベリアのアムール川(ハバロフスク)で亡くなった戦友に俺の花火を見せたい、花火を手向けたいと思ってね。白菊を上げに行ったんだ。精魂込めて作った白菊を戦友のために打ち上げることができて本当によかった。
このとき、目にしたのが、何万人もの戦死者の碑。「ロシア人も日本人と同じように大勢の人が亡くなっているんだな」と気付いたんだ。個人的な恨みや憎しみは無くなりました。戦争は何の得にもならないね。戦争っていうのは、本当にばかばかしいもんだ。
シベリアに行く前に、栃尾にいる戦友に『俺、こんだよ、ハバロフスクで花火上げてくるいや』と話したんだ。『どんげの花火持っていくが』と聞かれたら、亡くなった戦友の顔が思い浮かんでね。声が上ずって涙がポロポロと止まらなかった。戦友の死は、知らんうちに体の中へ染み込んでるんだね。『白菊だ』と答えるのがやっとだったよ。」

--昭和20年8月1日の長岡空襲では1,484人が亡くなっています。長岡でも殉難者の霊を弔う花火・白菊を打ち上げていますね。
嘉瀬「シベリアで白菊を上げてからしばらくして、長岡まつり協議会実行委員長の藤井さんがいらっしゃって、8月1日に慰霊の花火・白菊を打ち上げないかと。同じ思いでありがたかったね。平成15年のことでした。空襲が始まった時刻に合わせて3
発。戦争は恨みつらみないのに殺したり殺されたり。どちらも痛みを伴うもの。全くむなしい。世界中、戦争は決してしてはならん。」

--山下清さんも「みんなが爆弾なんかつくらないできれいな花火ばかりつくっていたらきっと戦争なんて起きなかったんだな」と話していたとか。嘉瀬さんは山下さんにお会いになってますよね。
嘉瀬「『天才画家の山下清』とは思えない出会いだったね。打ち上げ現場に突然現れたんだ。着ているものも、白いランニングに紺色の半ズボン。リュックサックを背負ってたね。だんだん日が西へ傾いて、俺の近くにちょこんと座っているんだよね。もっと日が暮れたから『おい、ここ花火がやってくる。危ないから向こう行ってなさい』と言ったんだよ。相手はちょっとわからない顔している。今度は『危ないから向こうに行ってれ』と言ったら『花火はどうして危ないんですか』と聞かれた。そういう言葉が返ってくるとは思わんかったんだよね。つい『危ないから、危ないんだよ!あっちへ行け!』と言ってしまった。こっちの負けらこてね。そしたら行ってしまった。
どうして山下清さんとわかったかというと、しばらくしてたまたま見た写真誌に見たことのあるような顔がある。なんと『放浪の天才画家 山下清』とある。あちゃー。こりゃだまかしたなと思ってね。それからしばらくたって昭和40年だったか、デパートで山下清展があったんだ。仕事が忙しくてなかなか行けなかったんだけれども、終わる前に一度のぞいてみることにした。そしたら長岡の花火を上手に描いてる。」

--それは嘉瀬さんの花火ですよね。
嘉瀬「そうらこてね。それでいいなあと思ってさ。また一日、二日と見に行った。「花火をあんげん立派に描く画家はいねえし、買ってこうかな」と。お金を工面して最後の日に行ったら、山下さんが弟さんといらっしゃったよ。俺もさ3回も通ってよく買ったと思ってね。とても大切な家宝です。」

--私もそうですが、嘉瀬さんの花火を見て育った“花火ばか”が多いんです。花火って本当に人の心を打つもの。パッと開いて消えて無くなる儚(はかな)さが人の心をつかんで離さない。その花火を山下清さんが形に残してくれたんですね。
嘉瀬「うれしかったなあ。世界一の絵描きだよ。山下さんにありがとうって。そして、あのとき乱暴な言葉を使ってすみませんって言いたいなあ。もっと長生きしてくれれやよかったな。」

--第一線を退いて7年。どんな気持ちで長岡花火を見ていますか。
嘉瀬「長岡の花火は日本一でいてくれという思いでいます。花火大会にはたくさんの人が関わっていますよね。会場の草を刈る人、席を作る人、大勢のお客さんが来るし、花火師も常に緊張して日進月歩でいい花火を上げていますね。
長岡は地の利がいい。俺は信濃川に育ててもらった。信濃川という現場があったから俺がいる。長岡の花火は日本一。いや、世界中花火を打ち上げに行ったがこんなに立派な場所はない。だから、世界一ですよ。
花火は人を元気にし、勇気付けることができる。平和を願う花火を安全に上げてもらって、お客さんに楽しんでもらいたいですね。」

嘉瀬誠次(かせ・せいじ)

大正11年生まれ。祖父の代から3代続く長岡の花火師。
14歳で父に師事し花火師に。昭和18年に出兵、終戦から3年にわたるシベリア抑留を経て帰郷。昭和26年父とともに長岡まつり大花火大会で戦後初の正三尺玉の打ち上げに成功。長生橋の仕掛け花火ナイアガラやミラクルスターマインなど、長岡の名物花火を数々生み出した。
平成16年の正三尺玉の打ち上げで一度は現役を退くが、花火関係者に2年越しで復活を懇願され、平成18年の市政100周年記念「世界の花火ショー」で自身最後となる正三尺玉2発を打ち上げる。ロサンゼルスオリンピック開会式など海外での打ち上げ経験は25回と多数。

Posted by 長岡市ウェブサイト